小峰城(福島県白河市)

白河駅の北側あり、きれいに公園化されている。駅からも電車からも象徴である御三階櫓がはっきり見ることができる。
なんといってもこの城の見所は高い石垣である。会津若松城、盛岡城と肩を並べる見事な石垣であり、正に石の造形による芸術品である。公園として残る城址は本丸を中心に二の丸の一部までを包括した部分であるが、本来の城はもっと大きく二の丸は白河駅の南まで広がっており、さらに三の丸がその外部を覆っていた。

しかし、城は戊辰戦争で炎上し、堀は埋められ、外郭部は市街地に埋もれてしまった。
阿武隈川の南岸、小峰ヶ岡と呼ばれる比高15m、東西700m、幅150mほどの細長い独立丘陵に築かれた梯郭式平山城、白河城とも呼ばれるが、搦目城ともいう白川城と混同するため、ここでは小峰城で通す。

築城は南北朝期の武将、結城親朝が興国年間(1340〜46)に行ったというが、本拠ではなく、小規模な砦の1つであったと思われる。
その後、白河結城氏の三代顕朝を後見した親朝が入り、居城として整備した。
当時の名は小峰ヶ館といった。彼は小峰氏を起こし、親朝の次男朝常が小峰氏を継ぎ、代々の居城とする。
小峰氏は白川結城氏の分家であるが、宗家と肩を並べる実力を有し、両家間で主導権を巡る対立が激しく内紛が度々生じた。
一時、白川結城氏に滅ぼされるが、再興され小峰義親の代には宗家の義顕を追放して、宗家を乗っ取るまでになる。
永正年間(1504〜20)頃には白川結城氏は本城を白川城から小峰城に移す。
この一族両家間の内紛で白河結城氏はエネルギーを消費してしまい、領内統治がおろそかとなり、まして領土拡張など出来る状態ではなかった。
これを突いたのが佐竹氏である。
佐竹氏の北上に対して白川結城氏は結束して果敢に抵抗するが、結局は佐竹義重に圧倒され、降伏。その子義広を養子に迎え家督を乗っ取られる。
その後、伊達氏に従うようになるが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの時には、義親は伊達政宗に託して秀吉に名馬を贈るが、参陣はしなかった。
このため領地を没収され、改易されてしまう。
改易後、この地は蒲生氏郷の所領となり、関一政、町野吉高が小峰城の城代を務める。
慶長3年(1598)上杉景勝が会津に入ると五百川縫殿介が城代となる。
関ヶ原戦後、再び蒲生秀行(氏郷の子)が会津に復すると町野氏吉、次いで平野日氏が城代となるが、寛永4年(1627)蒲生氏は後継がなく断絶してしまう。

その後、小峰城は棚倉城主丹羽長重に10万石で与えられ、幕府の命により小峰城の大修築が始められる。
幕府はこの城を奥州から関東平野に侵攻する敵に対する押さえの要にしようとしたという。
この仮想的は伊達氏に他ならない。丹羽長重をわざわざ城主にしたのは、当時、最高の築城技術者であった彼のノウハウを引き出すためであろう。
丹羽氏は棚倉城、小峰城の築城改修後はお役御免となり、二本松に移されている。

さて、中世小峰城は果たしてどのような姿であったのだろうか?このことについては「白河市史」が若干言及している。
それによると本郭の位置は現在の本丸の位置であったという。現在の構造も本丸の周囲を帯曲輪が1周しているが、戦国時代も同じ構造であったという。江戸初期の改修は基本的構造を踏襲し、本丸を高くし、全面を石垣で覆った工事であったようである。

現在、本丸の東側は堀切状であるが、この部分は尾根続きで東側の岡に続いていたようであるがもともと堀切は存在していたという。この部分の土をさらに削り、岡を完全に分断し、天守台の盛り土に使ったようである。
この東側に続く岡も城域であり、郭が展開していたと思われるが、この岡には住宅が建ち中世を思わせる遺構は確認できない。
この岡の北側にも石垣が築かれ近世においてかなり改変を受けているようである。
本丸の北を覆う水堀は阿武隈川の流れを引き込んだものというが、阿武隈川はもともとは今の駅付近を流れていたという。
戦国時代、洪水対策と水堀としての活用のため、この流れを分流した跡がこの水堀であったという。
この工事は中世に行われた。この工事で城は川の中に浮かぶ島のような城になった。
江戸初期の改修で川を現在の流れに付け替え、旧河川跡である駅付近を埋め立て、二の丸、三の丸を造成したという。丹羽氏この改修で今残る高石垣が造られた。戦国時代には土の城であった。
蒲生氏時代に一部の石垣が築かれたという。
丹羽氏の改修は完成までに4年の歳月を要し、完成時の規模は約60万uの面積を有し、丘陵西部の頂上部に本丸を置き、周囲に帯曲輪、竹の丸を設けその周囲は石垣と水堀で囲んだ。
二の丸から見た本丸の御三階櫓。 本丸清水門東の堀。 清水門を入ると帯曲輪に枡形がある。 帯曲輪から見上げた本丸の石垣。
本丸の御殿跡。 御三階櫓から見た東に続く岡。中世の二郭に当たる。 本丸西の帯曲輪はバラ園になっている。 本丸北側の帯曲輪、北を阿武隈川が流れる。
本丸西側の櫓台付近の土壇。 桜御門の枡形。石積の芸術である。 帯曲輪から見た桜御門の石垣。見事な造形の一言に尽きる。 二の丸西側の堀跡。
本丸西下の水堀、阿武隈川を分流した跡という。 本丸東の巨大堀切。 尾曳門の石垣は草木に覆われ当時のままである。間に本丸の石垣が見える。 東に続く岡北側の石垣。これも当時のままである。こちらの方面には余り観光客は来ないようである。

この主郭部は230m×140mの歪んだ5角形をしている。
また、東南に二の丸、三の丸を配し、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町、田町門、西に道場、会津門を設置した。
小峰城が完成後、城主は、丹羽氏、榊原氏、本多氏、松平(越前)氏、松平(久松)氏、阿部氏と目まぐるしく替わる。
慶応3年(1867)、阿部正静の棚倉に移封後は幕府の直轄地となった。その翌年、戊辰戦争の波がこの城に押し寄せる。
この城には城主がいなく、城は二本松藩が管理していた。慶応4年、会津藩が新選組など旧幕府の兵とともに小峰城を急襲。
二本松、棚倉、三春、泉などの各藩の守備兵は簡単に城を放棄、会津藩が城を占領する。4月25日、新政府軍は小峰城の攻略を図るが失敗。
5月1日早朝、新政府軍は増援を得て体制を立て直し、再度総攻撃を開始。この戦いで会津藩副総督横山主税などの奥羽列藩同盟の主だった指揮官が戦死。
この戦では、奥羽列藩同盟2500名は700名の戦死者を出して落城し、城から敗走。1回の戦闘でのこの戦死者数は戊辰戦争ではこの時だけという激しさであったという。
これに対して新政府軍は700名と人数は劣っていたが、銃や大砲といった新式の兵器を装備していたため、戦死者は12人だったという。
もっとも同盟軍は鎧と槍、旧式の銃という戦国末期と大して変わらない軍備であり、この200年以上の差が、損害の差に出たのであろう。
同盟軍はそれでも7月15日まで7回も奪還を試みるが、すべて失敗し、撤退する。
この時の戦いで城の主要な建物は新政府軍の砲撃等で破壊されるか炎上し、御三階櫓が再建されるまでは石垣だけの状態であった。
この御三階櫓は櫓とはいえ実質上は天守である。平成3年に再建されたが、この再建が当時の史料と工法によって忠実に行われている。
すべて木造であり、内部に至るまで詳細に復元されている。
それにしても、狭い。また、階段まで忠実に再現されていて昇るのが怖い位である。

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